2013年12月14日土曜日

瞑想における半眼の世界


私が半眼を体験したのは、もう10年以上前のことだが、そのときの感覚は、まるでついさっきのことのように、はっきりと覚えている。瞑想のクラスでは私が半眼に至ったときの技法を教えているが、瞑想は、これをやればこうなる、という直線的な考えの通用しないものである。私が伝える技法は、半眼に至る手法そのものではなく、瞑想を行う上での一つの道しるべとなるようなものだ。

瞑想はそのほかの多くのトレーニングと異なり、後退することがない。行えばその分だけ経験が増し、しばらくやらなかったからといって下手になることはない。経験を積むと、瞑想でしか味わいようのない感動的な瞬間が訪れる。それはなににも代えがたい喜びであり、人間の意識の底知れぬ深さを思い知る瞬間でもある。半眼はその一つである。


その日、私はいつものように、いつもの自分の部屋で、いつもの壁に向かって、目を閉じた。真昼のことだったので部屋は明るく、窓のある左半分は日が差して明るかったように覚えている。目を閉じてすぐにいつもと違うと感じたのは、頭がさえて活発に働き出し、全く瞑想状態に入れそうになかったことだった。そして、目を閉じて一分も経たないうちに、座っていることに飽いてしまい、じりじりと身体を動かしたくなるような感覚になっていた。

全く意に反する始まりだったが、そこで、私は瞑想を安定して続けるためのいつもの技法を使うことにした。身体のどこかの部分で左右を感じてバランスを取り、両方の感覚を手放す。そうすると、身体感覚は希薄になり、自然と自分の中心に意識が集まる。それを繰り返すことで、中心に幾多の点があつまり、しっかりとした軸を形成するようになる。やがて、軸がはっきりとして、身体がぶれなくなり、それは意識が芯の部分に集約されて安定化することにつながる。このプロセスを繰り返していくと、無駄な力が落ちて、瞑想するのにほどよい意識の状態に入っていくことができる。

10カ所ほど、左右のバランスを取り、力を抜いていくと、期待とは裏腹にますます感覚がさえてきた。力が抜けたときに感覚がさえるのは気枯(きがれ=気が枯れること)の逆の状態で、本来は肉体を動かすことに向いているが、一度座ったのだから、今日はこの技法でどこまで行けるかやってみようという気になった。

このプロセスが100カ所を超えると、自分の中心が安定し、ようやく座っているのが楽な状態になってきた。身体の軸は無数の点で構成されて、中心にすとんと力が落ちていて後の部分は脱力していた。しかし、依然として頭はさえていたし、いつもの瞑想とは違った意識の状態を維持していた。

200カ所を超えると、身体は中心を残して感覚が宇宙の中に消えていくようだった。しかしそれでも頭はさえていて、まるで自分が頭と芯だけの生き物になったかのようだった。

そこからさらにプロセスを進め、頭部、顔の左右を細かくとっていった。「もうそろそろやるところがないな。」と思いながら目の周りの筋肉を緩めた瞬間、身体に変化が起きた。

私は、目を閉じていた。つまり、目を閉じて瞑想を始めたし、目を途中で開けることはなかった。が、下から、なにか棒のような突き上げる力が起きてきて、私の上まぶたを、ゆっくりと押し上げていった。目をじっと閉じているのに、まぶたの隙間から光が入ってくるのを感じ、私はほんの一瞬、動揺したが、その先への好奇心からか、意識がすっと小さくなって自分の身体の中から外を眺めているかのように感じたからか、まぶたがゆっくり開いていく様子を静観していた。

下から突き上げる力は衰えず、着実にまぶたを押し上げていく。次第に視界が開けてくるのがわかった。そしてその突き上げは、両目が半分開いたところでぴたりと止まった。

私の眼前には、自分の見慣れた部屋の壁と家具が、緩やかなカーブを描いて遠くに広がっていた。まるで、山の上から魚眼レンズで遙か彼方の町並みを下に眺めているような、そんな光景だった。『なんて美しい光景なんだ』と心から思った。同時に、なんで自分の部屋の見慣れた風景、いつもの壁や家具がこんなに美しいのか、と頭のすみで疑問も浮かんでいた。しかし、自分の感覚は確かに、『なんて美しいんだ』と繰り返していた。

自分はなにか山の頂上にいて、それも身体の内側のなにか奥まったところに引っ込んで、そこから目という光の入る穴を通じて自分の部屋を眺めていた。遠くに広がる壁や家具には、なんだか霞さえかかっているように見える。自分の意識では目はしっかりと閉じていたが、勝手に半分だけ開いた目は、自分が今まで想像もしなかったような美しい世界を映していた。山の上の空気の爽快さと、明るい空の明瞭さと、雲のような霞のようなものがかかったヴィジュアルを、いちどきに味わっているような感覚だった。心は軽く清涼感に満ち、身体は山の上に浮かんでいるようであったが、身体の芯は微動もせず、安定を極めていた。まぶたが止まってからずっと、大きな快感の波が、押し寄せ続けている。この世はこれほどに尊く、美しいのか、と感動し続けた。

その意識の状態はしばらくの間続き、私はその間、遙か彼方に広がる自分の部屋を飽きることなく眺め、その情景が織りなす空気感を満喫していた。

やがて、目はまた閉じていき、瞑想に入り、しばらくしてその瞑想は解かれていった。

まるで空気の綺麗な山を旅して帰ってきたかのように、身体にエナジーがあふれ、心は晴れ晴れとしていた。

目に入るのは、いつもの見慣れた自分の部屋の壁だったが、自分が美しく尊い世界にいるということに初めて気がついた。部屋が美しいから美しいと思うのではなく、本来、この世界は存在するだけで感動的なまでに美しいが、普段はそれを思い出すことなく暮らしているということであり、すべてが地球のグリッドの元に整然と配置されていて、どんなものもそこにあるというだけでその美しさを体現しているのに、私はそれまで二元的な視点でその景色を眺めていたためにその美しさを見いだすことができなかったということがはっきりと理解できた。

この世界に理想郷があるとすれば、私たちはすでにその中にいる。自分でやるべきことがあるとすれば、それは、ただ「現在」を握りしめている手を放すことだ。なぜなら私たちは「現在」を握りしめているようでいて、過去や未来やその他のものも一緒に握りこんでしまっているからだ。「現在」を手放したとき、私たちは本来の姿に立ち戻り、その瞬間に初めてこの世界と一体になる。瞑想はその一助となるだろう。




2013年11月13日水曜日

混沌からみた『今』という奇跡



私が混沌に惹かれ始めたのは、小学生のある夏休み、祖父の家でのことだった。いつもなら朝から森に出かけ、ザリガニ釣りや蝉取りに興じるところだが、その日はなぜか留守番のようなことで家にいることになっていた。庭の池では鯉が泳ぎ、水の音と古いほこらのある日本家屋だった。しばらく探検したりしていたが、そのうちに家の奥の、入ってはいけないといつも言われていた部屋の手前にある書架に、ある本を見つけて、取り出して読みだした。

その本は、固い紙のケースに収まっていて、背表紙には『老子』と書かれていた。

シンプルな挿絵と、一ページごとに原文と訳が交互に連なっている、日本風でありながらアジア的な要素が随所に織り込まれた世界が語るのは、宇宙の話やこの世の理について。その世界観に一目で魅了された。中でも、混沌というコンセプトには、意識がしびれる思いをしたことを覚えている。

混沌、すべての始まりと終わり、すべてがそこにある場所とはいったいどのようなことか、蝉の声と池の水の流れる音を聞きながら、一人畳に寝転んで一つ向こうの宇宙をあれかこれかと探していた。

それから10年後、高校生の夏に、私はごく自然に書店の武術雑誌を手にとり、巻末の武術協会や教室のリストから、最も気功を教えてくれそうな団体に電話をかけて中国武術を習うことになる。

気功への興味は尽きず、さらに10年ほどたって、気功科のある中医大学の日本校に学び、医学的な気功から次第に瞑想的な気功に傾倒していく。卒業後は身体を調整する仕事に就いたが、それでもまだ、混沌の姿を明確には想像することができなかった。

そんなこともあって、実際に混沌にある、という体験をしたときは、感慨深かった。混沌という存在を知ってからずいぶんたって、ようやく混沌をみつけた、という感じだった。

混沌にあることは、純粋な喜びと興奮の入り混じったような体験だ。すべてがそこにあるという安堵と共に、探究の一つの旅を終えたという喜びと、なにか背中がぞくぞくするような興奮とが同時にあったのを覚えている。混沌では、自己の意識がとても希薄で、あらゆる現象、可能性のある事象と過去と未来がすべて一つの瞬間に凝縮された状態で存在している。その凝縮される過程で自己は失われていくが、同時にあらゆる可能性が拓かれていくので、そのプロセスを意図的に押しとどめなければ、そのまま限りなく希薄な自己意識に到達する。

自己は限りなく希薄になるが、失われることはない。混沌のなかであっても、自己は存在する。すべてが同時に存在する場所だが、自己が周囲の事象の軸になっている。

すべての事象を均等に感じれば感じるほど現在の自分、今自分がホールドしている(と思い込んでいる)意識と現実はなくなっていく。自分が自分であると思っていることがなくなっていくプロセスを見つめることは、純粋な喜びといえる。

混沌には、すべての宇宙がそこに含まれている。過去も、未来も、自分の想像しうるすべての可能性と、想像を超えたすべての現象がそこにある。

『今』という意識から混沌を見つめると、すべての事象が『今』という瞬間に凝縮されていて密度が高いように思えるが、実際に混沌から混沌を見るとそこにはあらゆる事象が折り重なるようにして、しかしどれも等距離にフラットに感覚で広がる地平であり、高い密度は感じられず、すべての可能性に手が届く、自由な意識の源のようである。

混沌という意識の拡大を体験することは、混沌という無限の可能性のフィールドに戻っていく、という事であるとも言える。

つまり、『今』と思っている現在の自分は元来、混沌の中に含まれていて、自分の意識は混沌の中から連続した『今』を取り出して時間軸に沿わせて順序よく体験しているということでもあるのではないだろうか。

混沌とワンネスは全く違った体験であり、その二つを同一視することはできない。ワンネスはエクスタシーそのものであり統合の頂点であるが、混沌はすべてがそこにただ存在する、という限りなくフラットな状態で、そこで意識の出発地点、存在の原点を体験することができる。ワンネスでは自己が拡大するが、失われることはない。それも混沌とワンネスとの大きな違いかもしれない。

混沌には一切の境がない。過去も未来も、あらゆるアクションとそれに付帯するすべての過去と未来の可能性が、膨大な数の事象としてそこに並列に存在している。

混沌は混沌としているものと思い込んでいたが、実際に混沌にあって、意識を微動だにせずにただそこにとどまっていると、むしろすべてが整然としていた。あらゆる可能性のある事象は自分から等距離にあり、そのどれを選ぶこともできる。

混沌にある状態でほんの少しでも意識を動かすと、自分の意識から同じ距離にあるすべての事象が変化する。人間の可能性はすべてそこにあるが、自分のアクションに応じて、「近い可能性」というのが変化して手の届くところに配列される、というような事が起こる。自分の選択、自分の意識の変化は確実に現実に起こりうる事象に影響を与えていて、その変化は自分の動きが激しくなればなるほど、大きくなっていく。混沌で忙しく意識を動かすことは、まるで幾万枚の画像が早送りで自分の周囲を取り巻いているような感覚であり、それは、混沌(カオス=Chaos)とよばれる雰囲気に似ていると言えるかもしれない。そして、このこともまた人間の意識が現実に与える影響の確かさを表しているように思える。

私たちはもともと、混沌にいたわけであるから、そこからどんな事象を持ってくることができる。私たちの選択は自由意思によっている。昔そこにいたということでもなく、昔も今も選択を続けているということでもない。すべては今、起きている。すべての事象が今この瞬間に起きているということが、人類のこれからの可能性を開く鍵になるのだと思う。私たちには、本来、『今』しかないのである。『今』と共にある事でしか、過去も未来も定義することができない。

混沌は美しい。整然として、一部のすきもない。すべての事象が完璧なバランスで、私たちの考える次元を超越した配列で存在している。そこから私たちは自由意思で自分の『今』を選んでいる。私たちの『今』の後ろには、すべての過去と未来とそれに付帯するあらゆる可能性が控えている。その美しさは、圧倒的であり、その整合性は、唯一無比である。こうして幾十億もの人が、一人一人の『今』を携えて、同じ一つのフィールドを共有していることは、類い希な現象のように思える。混沌に意思があったらきっと混沌自身も、「地球の方ではずいぶん珍しいことが起きている」と思っているに違いない。それでも、今も昔も未来も本来は『今』にしか起きていないわけだから、混沌は私たちがどのような選択をしても、どのような状況にあっても混沌として存在し続ける。『今』が存在する限りは。

この奇跡的な『今』に感謝を捧げる。



2013年10月14日月曜日

競争の時代の終わり


『早起きは三文の徳』といわれる。これを英語にすると、“Early bird catches the worm. ”「早起きの鳥は虫を捕まえる」となると、ずいぶん昔に教わったように覚えている。しかし、実のところ、私はこの二つが同じようで同じではないのではないかと思っている。
『早起きは三文の徳』ということわざには、その語源についていろいろな説があり、定まらない。それが定まらないのに、こんなことを主張するのはおかしなことかもしれないが、純粋に、日本語の話し手としての感覚でこのことわざを見つめたときに、受け取れるイメージは、早起きした人は三文の徳となるが、早起きしなかった人については言及していないということ。ここでのフォーカスは、「早起きした人」だけである。一方、そのことわざを英語で表現した場合の、“Early bird catches the worm. ”「早起きの鳥は虫を捕まえる」になると、趣が若干異なる。早起きした鳥は虫を捕まえられるが、早起きしなかった鳥は、虫が捕まえられない、ということが暗示されているように私には思える。つまり、日本語のことわざでは、早起きした人は全員が三文の徳が得られる、となり、それ以外の人については何も言及がない、と感じられるが、英語の方の、早起きの鳥は、全員が虫を捕まえ、そうでない鳥は捕まえられない、というイメージがつきまとう。私の考えや言語感覚が浅い故の感じ方かもしれないが、何となく、日本語の表現は牧歌的で、英語の方は競争の原理からくる戒めのようなものが込められているような気がしてならない。

人間の社会は競争社会といわれる。しかし、江戸時代、そんなことを言った人、そんな風に思って生活していた人はどれだけいただろうか。江戸時代は、町もきれいで、住む人は町人も武士も農民も割合と幸せに暮らしていたと伝えらている。もちろん、当時は寿命も短く、災害などもあって大変なこともあったであろうが、私が想像するに、一般的な町人の暮らしは割合とのんびりしていたのではないかと思う。そんな日本でいつからこんなに競争があふれ、声高に勝つこと、相手を打ち負かすことの重要性が叫ばれるようになったのだろうか。世界的に資本主義が広まり、生活が現代的になったので、それに賛同する全員がお互いに競争するようになったからなのか、あるいは、世界的な流れであった帝国主義がアジアに寄せてくるようになって、国を倒したり倒されたりという競争を至上とする主義が台頭したからかもしれない。

日本人は自分のことをナンバーワンとはいわない。でも他の人にナンバーワンといわれると喜ぶ、という記事を見たことがある。ここでは、日本人の内気な態度や、陰では一番を願っているのにそれをはっきり言わない曖昧さのようなものが取り上げられていたが、そもそも、わざわざ競争めいた土俵に上ったり上らされたりして、優劣を判断すること自体が、日本人の感覚に欠如しているものなのかもしれない。

個人的に、人間にとって競争は必要ないと感じる。競争の行き着く先は、戦争かもしれないと思う。本来、生命の存続において重要なのは日々、満ち足りて生活することだが、競争の心理において重要なのは、自分が満足することではなく、誰よりも一番になることだからだ。競争の世界においては、それに参加しないと、他の誰かが一番になり、一番にならなかったものは大なり小なり虐げられるという恐怖感をあおられる仕組みができあがっている。社会にとって、恐怖感をあおられる仕組みは必要かといわれると、それはいらないということになるだろう。ある段階においては、同じ分野で探究するもの同士が切磋琢磨することが社会にとってプラスの刺激になることがあるかもしれない。しかし、それは一時的なことで、常に誰かと切磋琢磨を続けて他を引き離していないといつか虐げられるという仕組みは必要ないように思う。

日本人、外国人を問わず、私がこれまで会ってきた優れた人たちは、決して他人より優れることを目的としたり、トップになろうと努力を続けてきた人たちではなかった。むしろ他を気にせず、常にマイペースで、淡々と自分の思うところを続けてきている人が、特定の分野で大きな成果を上げ、社会に新しい技術や概念などの恩恵をもたらしているように思う。

そろそろ、競争の時代は終わりにしても良いのではないだろうか。熱心に探究を続ければ、いつの間にか他に先んじていることもあるだろうし、また別の時には他が先を行くこともあるに違いない。しかし、そのちょっとした前後によって、お互いが影響を受け、探究を続ける意識が少しでもそがれるようであれば、人生を無駄にするようなものである。人生には、他人より優れているかどうかを気にするほどの時間はない。ただ純粋な探究のみが、自分を本質へと導いてくれる、と、そんな風に思う。


2013年8月20日火曜日

サプリメント摂ってみました



10年くらい前はビタミン類の錠剤や、液体の植物性ミネラルなどを飲んだりしていましたが、数年前から全く摂らなくなっていたサプリメント。この夏に杏林予防医学研究所の山田豊文先生の講義をきいてから、もう一度、認識を改めて摂ってみようという気になりました。

山田先生が特に摂ることを勧めていたのがマグネシウムと亜鉛です。マグネシウムは食物から摂るのが理想ですが現在の農法ではマグネシウムが少なくなりがちだそうで、ただでさえ体内に取り入れにくいミネラルなので、不足することがとても多いとのこと。窒素、リン、カリウムを化学肥料として土壌に加えてきたことによって野菜や畜産物に含まれる栄養素や微量ミネラルのバランスが著しく変化しているのはよく知られていますが、マグネシウムがそんなに足りないことになっているとは驚きでした。

マグネシウムは体内のカルシウム量を調整する役割がありますが、吸収されにくいため、適量を摂り続ける必要があるそうです。骨を強く保つのにもマグネシウムは必須の栄養素なので、それを経口で摂ってみることにしました。

亜鉛もまた、体内で足りなくなりやすいミネラルだそうです。亜鉛の欠乏により味蕾の働きが低下して味覚が鈍るということがよく言われますが、放射性物質の排出にも関わっているそうなので、足りなくならないように十分な供給を確保することが重要だそうです。また、亜鉛はDNAを作る際の材料となる物質なので、細胞を新しく生成するのに欠かせないミネラルでもあります。

まず、杏林予防医学研究所でマグネシウムスプレーと亜鉛酵母を購入して一ヶ月あまり飲んでみました。それまでも特に体調が悪いということもなかったのですが、飲み始めて1週間で体調はさらに良くなって、良い状態が安定するようになりました。

4週間すると体調が著しく改善し、この半年間で初めてゼロ睡眠と極小食で丸二日間過ごすことが出来ました。ゼロ睡眠とは、全く眠らずに過ごすことで、バイタリティに溢れ、体調のとても良い時、なおかつ心が落ち着いて精神活動が充実している時にそのような状態になります。この意識の状態になると、食事の量がごく僅かになり、果実を少しと穀物を一口、あとは水だけ、というような献立で一日すごす事になります。睡眠を我慢するわけでもなく、食事を制限するわけでもなく、ただ活動を続けていくと自然にその状態になるのです。

一ヶ月でかなり良好な結果が得られたので、マグネシウムと亜鉛のセットにタウリンも加えることにしました。いつも食品やお茶などを購入しているiHerbでタウリンを探し、ベジカプセル入りのものがあったのでそれを購入。加えてマグネシウムと亜鉛の錠剤も別の会社の製品を求めました。

アメリカのサプリメントなので予想通りの大きさでした。マルチビタミンなどを飲んでいた時を懐かしみながら、ここ10日ほどは新しい組み合わせでマグネシウムと亜鉛、そしてタウリンを飲んでいます。体調はよく、意識もクリアなので、当面はこれで行こうと思います。

タウリンは、胆汁酸の分泌を促進し、肝機能を強化する効果があると言われています。今年は、肝に注目していることもあり、そのデトックスや機能の強化を目指しているので、タウリンはこの時期に摂るのに良いと判断しました。タウリンが多く含まれている食物は、牡蠣、イカ、タコ、エビ、ホタテと、どれも私がここ15年食べていないものばかりですので、そういった意味でも、サプリメントで補給するのが良かったのかもしれません。

サプリメントの摂取で気になるのが、摂り過ぎや副作用です。亜鉛とタウリンの摂取については、多すぎる分は排出されてしまい、特に副作用もなく、問題ないようです。マグネシウムは腎臓の機能が低下している場合には、体内に必要量以上のマグネシウムが残留してしまう可能性があるので注意が必要とのことです。あとは、ジギタリス製剤を服用している時にマグネシウムを摂取するとジギタリスの吸収が減じられるということがあるそうです。

後は、このセットをいつまで飲み続けるのかということです。体調は、意識の状態によって変化します。良い状態で安定すると、それを意識が記憶して、その良い状態を現実化させようと意識が働くようになります。それがうまく働けば、サプリメントを摂らなくても、同じような良い状態を維持することができるでしょう。これから先、何ヶ月飲み続けるのかは、まだわかりませんが、除々に量を減らしていったり、意識を調整して飲まずにその状態を得られるようにしていきたいと思います。



2013年7月2日火曜日

人生は祈りと探求

人生には祈りと探求だけが存在する。

祈りは願いであり、希望であり、人を駆り立て、理想に向かわせるものだ。自分に対する願い、人に対する想い、社会に対する考えも、あなたの祈りとなる。あなたは日々、祈っている。世界平和のため、母親や子供、家族の健康のため、いつか出会うパートナーのため、自分の生活のために祈りを捧げ、様々な希望をもって毎日を過ごしている。

そして、あなたのあらゆる行動は探求である。朝起きて、歯を磨き、着替えて、ご飯を食べる、同じようなことを毎日しているようで、この宇宙ではそれらは初めて起きている。歯を毎日磨くことは探求であり、毎朝スムージーを作ることは探求である。人生のあらゆる活動は新しい探求である。何かにチャレンジして失敗し、また立ち上がって挑戦することも探求であるし、一日中歩きまわってようやく家に帰り着き、ぐったりしてソファに倒れこんで甘美な夢をみるのもまた探求である。

人と会って食事を楽しんだり、お茶を飲んだりすることも、この宇宙では初めて起きる出来事である。その相手が同じで、同じ店で、同じ曜日であっても、この宇宙ではその出来事は宇宙ができてから初めて起きる出来事なのだ。そして、それはあなたにとっても、その相手にとっても、人生における探求の一歩を共に踏み出しているということだ。

最近は、『成功』という言葉がよく聞かれるようになった。成功するための法則を謳うものまで登場した。でも、本当にそれが存在するのか考えてほしい。成功は幻想だ。人生が大きな幻想であることにさらに輪をかけた幻想だ。人生には祈りと探求しか存在しない。その人生、祈りと探求を日々行う私たちを取り巻く現実でさえも幻想なのに、さらに別の幻想に手を出そうとするのは、雲を追いかけてハリボテの崖から飛び降りるようなものだ。

もしあなたが孫悟空なら、雲は自然とあなたのところにやってくる。雲に乗って空を駆けるために、雲を追いかけて崖から落ちるほど滑稽な話はない。

成功はこの世には存在しない。誰かがその言葉を使って、あたかもそれが存在しているかのように見せかけているだけだ。『成功するには・・・』という言葉に惹きつけられた時、あなたは人生を失いかけている。

人生には、祈りと、探求だけが存在する。あなたにとっての祈りとは何か、あなたにとっての探求とは何なのか、それだけにフォーカスしていれば、あなたの道は平で真っ直ぐなものになる。真っ直ぐな道は、あなたを最も早く、自分自身の場所、自分自身で在り続けるフィールドに送り届けてくれる。自分自身であることこそが、人生の歓びのエッセンスを味わう入り口となる。自分自身である時、あなたは自由だ。自分自身である時、あなたはシンプルで、力強く、創造性に満ちている。あるべき生命の姿がそこにはある。

祈りを捧げよう。そして探求の旅に出よう。


毎日は新しく、この世界は宇宙の始まりから終わりまで広がっている。



2013年5月20日月曜日

完全美脚プログラム始めます

コアフロー・ボディワークスでは、もうすぐMANACOAとして統合される姉妹サロン、TOTOKAとコラボレーションした美脚プログラムを始めます。

<完全美脚プログラム 全6回 合計900分 料金108,000円→98,000円>
・5回のコアフローボディワークスのセッション
・1回のTOTOKA(サフィ担当)によるオイルトリートメント
全6回のセッションには、お体の施術、呼吸法や美脚維持のためのレッスン、美しい歩き方の指導、自宅でもできる調整法などが含まれています。プログラムは、3ヶ月から5ヶ月以内に完了するのが理想的です。スケジュールにつきましてはご相談を承りますのでご連絡ください。

1回ごとにお申込みいただく場合のセッション代金は18,000円となります。


ご相談、ご予約は、info@coreflow.jp(トミタ)もしくは、totokainfo@gmail.com(サフィ)までご連絡ください。セッション日程につきましては、下記のリンクを御覧ください。

コアフローボディワークス
http://www.coreflow.jp/contact_schedule/

TOTOKA
ニュース&日程



TOTOKAのセラピスト、サフィとは、普段から『美しさと強さの共存』についてよく話しています。美しい体でありながら強くあることは、この世界の多くの人が望むことだと思います。私自身は、人間の骨格が本来持っている美しさが最大限に発揮された時には、それと同時に肉体的な強さも発現する、というふうに考えています。

チーターなどの美しい野生動物の体には無駄がなく、脚などは細いくらいに感じますが、走るときには力強い動きで地球を蹴って進みます。人間の体も、そのDNAが持つ最も自然な美しい形、そして進化的な体型にあることで、その能力を最大限に発揮できるのではないかと思います。

私の考える美脚とは、その人の骨格が本来持っている自然な美しさと、なめらかで力強い動きを実現する機能美を兼ねそなえた脚です。骨格の美しさと肉体的な機能、この2つを最大限に引き出すためのプログラムを今回はご紹介します。

美しい脚を実現するために最も重要なことは、骨盤と後頭部の配置と、体幹と股関節のバランスです。骨盤と後頭部が本来の骨格に見合った位置関係にあり、体幹と股関節が適度な緊張と弛緩のバランスで保たれている状態になって初めて美脚が実現します。

これには立っている時の重心の位置や、歩いたり動いたりするときの筋肉の使い方、力の適度な抜き方などが関係しています。

骨盤と頭蓋骨の角度と前後の位置関係を修正することで肩こりや腰痛、内臓の調子にもよい影響があります。頭蓋骨の角度は気分にも影響しますから、気分にむらがあるという場合は特に修正すると良いと思います。理想的には、意識しなくても自然に適切な角度となることですので、頭蓋骨を支える筋肉が柔らかくあるように肩甲骨や首の筋肉をほぐしていき、本来の骨格の姿になるように整えます。

私がこれまで何千人というお体を見てきて、下半身の健康という面で絶対に外せないと感じることが、体幹と股関節のバランスです。体幹は短く円筒形気味に、そして股関節はゆるやかに外側にひらく、というのが基本ですが、人によって骨格の特徴があり、筋肉の付き方や生活上の癖などがありますから、その度合いや実現するためのステップを一人ひとりに合った形でアドバイスしていきます。

骨盤と頭蓋骨、そして股関節のバランスが整うと、後は自動的に脚が細くなり、たくさん歩いても疲れにくくなります。そして、自然にヒップアップも起こります。あるべきところにヒップがある、そんな体に変わっていきます。高いところに引き締まったヒップがいつの間にか出来上がり、後ろ姿に自信が持てるようになります。

完全美脚プログラムでは、骨盤の状態を本来の骨格の位置に戻し、大腿部や膝、足首の緊張を解いて体幹と股関節のバランスを徹底的に整えることで、よりリラックスして、伸びやかな脚をつくっていきます。そして、どうしたらスッキリとした状態の脚を維持できるか、実生活の中で役立つシンプルで効果的なストレッチや運動法をお教えします。人間の体は、常に変化しています。その変化を感じ取りながら、無理なく自分本来の骨格的な美しさに近づくメソッドを提供します。

美しい脚は、脚を施術するだけでは得ることができないと私は考えています。骨盤から肩甲骨までの体幹を構成する部位の状態とバランス脚の形や大きさに影響しますし、肋骨の位置や呼吸の深さも、体幹の安定性に大きく関わっている要素です。私のこれまでの経験では、呼吸の浅い方は、気の巡りが緩慢で、体の中に水分がたまりやすく、それは脚にも影響していることが多いです。このプログラムでは、体内の気の巡りを活性化して美脚をさらに内側から磨き上げるように、しっかりした体幹を作るための呼吸法と、美脚をさらに美しく見せるための歩き方を指導します。

完全美脚プログラムのセッションは全部で6回あります。はじめの5回のセッションで、骨盤、骨格の調整などお体への施術と、美脚の仕組みや呼吸法、歩き方の説明と運動法のトレーニングを行います。お体の調整は、コアフローセラピーとトーニングを使って行いますので、ほとんど痛みを感じることは無いと思います。ただし、足首の調整、肩甲骨の調整を行う時のみ、筋肉の緊張が強い場合には痛みがあるかもしれません。その時にはご希望に合わせて手技の強さを調整します。セッションとセッションの間は最低3日間、空けていただき、2回ずつのセットを3回、合計6回を3ヶ月から5ヶ月以内に受けていただくのが理想的です。

プログラムの最後、6つ目のセッションはTOTOKAによるオイルトリートメントです。脚を中心に全身をしっかりと揉みほぐして内側と外側から磨き上げます。肉体と精神、その外側も内側も、全ての要素に調和がもたらされるように特別なトリートメントが行われます。





2013年4月29日月曜日

アルカイックスマイルと内臓の滋養


今から22年前、京都を訪れた時に初めて広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を間近で見ました。そのあまりの美しさに衝撃を受け、しばらくその場に立ち尽くしたのを覚えています。

後に、この仏像がたたえているほほ笑みが、英語ではアルカイックスマイルと呼ばれているということを知りました。

今日は、このアルカイックスマイルと、人間の内臓がどのように関係しているのか、そしてそれによって内臓を滋養する仕組みについて書きたいと思います。

中医学では、人間の内臓と関連する機能を、『五臓六腑』というように分類しています。五臓とは、肝、心、脾、肺、腎であり、六腑とは、胆、小腸、胃、大腸、膀胱、三焦です。

五臓六腑のうち、ほとんどが現代的な内臓の呼称と対応しているので、概ねその内容を理解しやすいのですが、三焦についてはあまり馴染みがないかもしれません。三焦は、上焦、中焦、下焦にわかれ、体内の水液とエネルギーの循環を司る機能全体を指しています。三焦を体内の器官として捉えようとするとは現代的な人体の理解とやや異なるところもありますが、内分泌系やリンパを示すという説もあります。体温調節のために汗をかいたり、緊張が続くと胃が痛くなったりというようなことも、三焦の働きといわれています。

ところで、五臓六腑におけるそれぞれの漢字は、必ずしも内臓そのものを指しているわけではなく、心(しん)といえば、今でいう心臓そのものに加えて、心臓が行う作用や体内での機能を包括的に指しています。そういった捉え方が西洋医学と大きく異るところかもしれません。ですから、三焦というのも、体のある部分を指しているわけではなく、水液代謝やエネルギーの循環を統御する機能としてとらえるのが一般的といえます。

五臓と六腑の機能には、それぞれ特徴があります。五臓は体を支える器官として、それに関連する各臓器がそれぞれ個別の役割を果たし、全体的にバランスを保ちながら機能しています。六腑は、関連する臓器の殆どが空洞で(胆については胆汁という消化液を貯蔵していますが、袋状ですので空洞として考えます)、主に食物の消化機能やエネルギーの抽出、水液代謝の機能を持っています。

つまり、六腑は、食べ物や飲み物などをどのように体の中に取り入れ、エネルギーを取り出し必要のないものを排出していくか、という一つの大きなテーマを元にその役割を六腑全体で果たしている、ということになります。

それに対して五臓は、外界から見ると六腑よりもさらに体の奥に位置していることになります。ですから、最も重要なのは、奥にある五臓で、そこに外界から栄養を取り入れ運ぶために六腑が存在するということなのです。口から取り入れられた食物は、胃、小腸、大腸と進むに連れて一般的には構造が小さくなり、それぞれの器官が吸収しやすいように形を変えていきます。内臓を一つ経るごとに、体にとってはより馴染みやすいものとなっていくわけです。すると最も体にとって馴染みにくい状態の食物はどこにあるかというと、口から胃までの間ということになります。

完全に外界のものが口の中に入って咀嚼され、唾液と混ざって食道から胃に入っていくことは、消化における最も初期の段階です。よって、口の中、胃の中は、外界と体内との接触を常に行なっている場所といえます。ここを癒すのに、最もオートマチックで効果的なのが、アルカイックスマイルなのです。

人間の体の中で、最も大きな気の流れは体の中心線からやや中程を通るといわれる小周天です。小周天は会陰に始まり、背中を上行し、頭頂へ至り、その後は額から口中へと下降し、腹部を通り会陰に至る気のサイクルで、これが安定して巡らせることで肉体的にも精神的にも充実します。気功のトレーニングは多くがこの小周天をどうやって充実させるかという事に重点を置いています。

この小周天が口の中を通っている時にアルカイックスマイルをしていると、気の流れが口の中で一度滞留してから下へ流れていくようになります。気が口の中で滞留している間は、多くの唾液が出ますから、その唾液に気がたまり、それを飲み込む事で食道や胃が滋養されるのです。笑っているだけでも良いことがあると言われますが、ほんの少し笑って、アルカイックスマイルを維持するだけでも胃腸に良い効果が期待出来ます。更にこの効果を高めるためには、舌先を口蓋に軽く触れておきます。こうすることで、小周天がめぐりやすくなり、より多くの気が体内を流れることになります。

舌の先を口蓋につけて、一種の閉じた気の回路(Closed Qi Circuit)を作った状態でアルカイックスマイルをたたえると、より多くの気が体内を循環し、消化器官を滋養します。生体エネルギー的な観点で見ると、周囲からの影響も受けにくくなりますから、混雑した場所や自分が苦手な場所にいるときなどに行うのも効果的です。




2013年4月10日水曜日

時間はまっすぐに進んでいるのか





現在、時間は過去から未来へとまっすぐに進んでいると考えられています。
その中に私達が存在し、皆に平等に同じだけの時間があると思われています。

本当でしょうか。

昔、地球は平らだと考えられていました。
皆そのように信じていましたし、疑問を持つ人のほうが少なかったでしょう。
しかし、地球は丸かった。今は多くの人が、地球は丸いと信じています。

地球は本当に丸いのでしょうか。

それはまだ分かりません。私達の意識は、未知の領域を含んでいます。その未知の領域が
開拓された時、地球はもっと別の姿で私たちの前に現れるかもしれません。

私はこれまでの多くの体験から、時間はまっすぐに一様に進んでいるわけではないと考えるようになりました。そして、時間の流れ方と意識の状態が相関関係にあるということを信じています。時間は、今私たちが考えているより複雑な構造をしており、意識と密接なつながりを保ちながら存在しているのだと思います。私たちは意識の状態を変えていくほんの少しの工夫で、今の直線的な時間の概念から離れることができます。

この変化を体験する方法はシンプルです。時間とより深く繋がって、より長く単位時間の中にとどまる意識状態に踏み込んでいくことによって、時間の概念は変化し、時間がより複雑で緻密な要素の集合であることが感じられます。

この方法で普段と違った時間の中に入ることで、懐かしい体験や全く新しい体験がもたらされるかもしれません。何れにしても、とても興味深い体験になるだろうと思います。

時間の感覚の変化という意味では、専門分野で活躍する人は、通常とは違った時間軸の中で実力を発揮するということを日常的に行なっていると考えられます。スポーツマンや、ミュージシャンなどは、パフォーマンスがピークに達した時、多くの場合、時間の感覚が変化する体験をします。交通事故にあった時もそのような感覚になることがあると聞きます。このように専門家が感じる時間的感覚の変化や、事故に遭った時に突然周りがスローモーションになるようなことも、意識の状態が変わって、時間の捉え方が変わることによって最終的に現実にその影響が及びうるような現象だと思います。

ロータス8で開催しているワークショップでは、この時間の感覚の変化を取り入れて、より効率的に気功や瞑想、セラピーを学べるようにしていきます。

今年は、コアフローセラピーのラーニングクラスも開催していきますが、そのクラスの中でも、はじめに時間の感覚を変化させてから内容に入ります。このことで、参加者全員がより柔軟な時間軸の中に身をおくことができるようになり、技術の習得にも多くのメリットがもたらされます。

この感覚、この意識の状態を理解し習得すると、日常生活のさまざまな活動において応用することが可能です。なにかの理由でとても急いでいる時にこの感覚を使うと、ほんとうの意味で急ぐことができます。ちょっと不思議な、人生の息抜きにオススメの体験です。









2013年4月3日水曜日

合一気功とコア瞑想ワークショップ



合一気功とコア瞑想ワークショップのお知らせです。

東日本橋のヨガスタジオ、Studio+Lotus8にて、合一気功とコア・メディテーションの一日ワークショップを開催します。

日時: 4月20日(土) ・ 5月25日(土)
場所: スタジオ+ロータス8 東京都中央区東日本橋3-3-17 アクセス GoogleMaps 
内容: 合一気功ワークショップ
参加費: 4,000円
必要なもの: 動きやすい、締め付けの少ない服装

どなたでもご参加いただけます。

合一気功とは、天地の気と自分の体を流れる気を一つにするための気功法です。自分の体にある(と思い込んでいる)力を手放し、自分の周りにある力を感じていくことからスタートして、やがて天地のエネルギーと一体になっていきます。天地と一体になった時、体は軽くなり、精神は明るく強くなっていきます。この功法を続けることによって体内のエネルギー体系を活性化し、自動的に体が健康に向かうように調整できるようになります。

健康であるためにハードなトレーニングを体に課し続ける必要はありません。個人の持つ身体的な特徴、体質、筋肉の量などによって健康を維持するための運動は異なります。気の流れを十分に整えることによって、自然に自分の体の特徴にあった運動がわかってきます。そうすることで初めて快適な状態で健康的な体と精神を保つことが可能となります。

気功において、気が自在に体をめぐることは最も大切な目的の一つです。そして、体の気のめぐりにおいて最も重要な要素は腰の柔らかさ、しなやかさにあります。ですので、合一気功では、腰の力を抜いて柔らかさを得るための時間を多くとっています。しなやかな腰に大きな気の流れを導くことで、全身の気を充実させ、体の持っているポテンシャルを引き出していきます。あらゆるトレーニングやダンスの基礎としても合一気功は大きな効果を発揮します。

タントウ功は、伝統的な気功のトレーニングの中でも最も効果的な功法の一つです。シンプルですが奥深く、自分の体の中の気の流れや、体の周りの気の流れを感じ取り、地球とつながり宇宙のエナジーを取り込む事のできる素晴らしいトレーニング法です。

立禅とも呼ばれるタントウ功は、コツコツと続けて実践していくと、体の基本的な力が備わってきます。激しい運動をする時の体力とはまた違うのですが、ゆったりした日常的な動きをしていく中での体力と安定力が備わってきます。タントウ功によって体が変化してくると、無駄な力が取れて体が軽くなり、いくら立っていても平気になります。また、自分の体の重心や、筋肉の使い方について的確に、そしてより深いところで感じるようになるので、歩いたり走ったりする時に自分の体に調和した動きを自然と行えるようになります。

日常生活の中でも様々なメリットがあるタントウ功ですが、このワークショップでは、効果的にこの功法を行うためのコツをお伝えしていきます。


合一気功の後、最後の30分ほどの時間を使って、コア瞑想を行います。コア瞑想は、自分のコア・エッセンスとつながるためのメソッドであり、最短で30秒で体と精神をリフレッシュさせることが可能な瞑想法です。コア・エッセンスとは、自分のエネルギーの故郷とも言える場所を示しており、この宇宙の何処かに多次元的に存在しているエネルギーのフィールドです。特殊な誘導によってこのエネルギーの源にアクセスすることで瞬時に自分の体と精神を癒し、自分がなすべきことのために十分なエネルギーを蓄えることが可能となります。

瞑想をやってみたいという方から、やってみたけど効果がよくわからいないという方、いくつかの瞑想法をすでに実践されているという方まで、多くの方におすすめできるシンプルな瞑想法です。


合一気功ワークショップは、ゆったりとした動きが主となっています。自分の内側や外側の微細なエナジーの流れを感じていく、瞑想的で穏やかなトレーニングです。激しい動きはありませんが、体内の気の流れが活性化されて汗をかくこともありますので、タオルなどをご用意されるのも良いと思います。ヨガマットは必要ありません。途中、座って気を感じたり瞑想したりすることがありますが、床に座ると足に負担がかかる場合には椅子に座って行うことができます。

お申込みや開催場所へのアクセス、料金のお支払いなど詳しくは、Studio+Lotus8(03-6825-6888)までお問い合わせください。

その他、内容や講師についてのお問い合わせは、info@manacoa.co.jp までご連絡ください。



富田 しょう
http://manacoa.co.jp/